【飢饉・洪水と戦った?】岡山藩4代目藩主・池田綱政は何をした人?
こんにちは〜!
カワタツです!
🤡「どーも!
デルピエロです!」
こないだ、
こういう本を読んだんだよ。
🤡「えーと、
池田綱政?
(いけだつなまさ)
岡山では有名な、
池田光政さんの息子だよね」
そう。
僕らの住む岡山の、
岡山藩4代目藩主だ。
🤡「この綱政さん、
何をした人なの?」
じゃあ、
上の本の感想程度に簡単に、
池田綱政は
何をした人?
という事を説明しますね!
岡山県民・岡山市民には、
ぜひ読んで欲しいです!
目次
飢饉や洪水と、それによる財政危機に対応した?
まず倉地克直さんの「池田綱政」を読んで、
思ったのが、

大半が飢饉や洪水などの災害への対応と、
それによる財政のやりくりについて、
語られている。
🤡「飢饉?
洪水?
大変だったんだな」
そう。
飢饉で大量に餓死者が出たり、
たくさんの家が流されたり、
それを助けるため、
藩の米を出したり、

食べる物がなくて困った人を、
救済してたみたい。
🤡「優しい藩主だったんだね」
父・光政さんの教えを、
受け継いでたみたいだね。
そして津田永忠が社倉米を運用して、
藩の財政をどうにかやり繰りしてたみたい。
🤡「社倉米って、
どういう仕組み?」
それが難しい話で、
よく分からなかった😅
🤡「マジか〜」
社倉米について、
詳しく知りたい人は、
倉知克直さんの本「池田綱政」を、
読んでみてください!
というわけで、
池田綱政が藩主の時期、
飢饉や洪水に悩まされた。
綱政は飢えた人々を救済し、
津田永忠の社倉米など、
財政をやり繰りしようとした。
岡山市民に親しみ深い施設を作った?
岡山市民・岡山県民にとって、
身近に感じる物が作られたのも、
綱政の時なんだよ。
🤡「身近に感じる物?」
百間川と、
後楽園だよ。

🤡「百間川は君も良く通ってるよね。
やはり洪水対策で作られたのかな?」

そうだと思う。
そして、
百間川を作った事で、
旭川の洪水が軽減され、
岡山城下を流れる旭川のほとりに、
後楽園が作られたみたい。
🤡「なるほど。
順番が分かりやすい」
ちなみに、
もう1つ今度は岡山市東区民に、
親しみ深い事なんだけど、
西大寺の南の辺りを新田開発して、
その堤や水路を作る、
土木工事がうまくいったから、
それを百間川の堤を作るのに、
活かしたっぽい。
🤡「東区南部の平地が干拓されて、
田んぼになったのも、
綱政さんの時代なのか〜」
そして、
後楽園がなぜ作られたか?
なんだけど、
この時代、
大名庭園を作るのは、
全国の大名たちの間で、
流行ってたらしいね。
🤡「それで綱政さんも、
大名庭園を作りたくなったってわけ?」
そうだね。
でも最初は、
田んぼの中に家が一個ある程度の、
庭園だったらしいけどね。
🤡「流石に財政がヤバい状況で、
派手な庭園は作れなかったか」
ただ後楽園が今の広さになったのは、
綱政さんの時期だったらしいけどね。
🤡「綱政さんの時期には、
今の広さだったのか〜!」
そして百間川も後楽園も、
綱政さんが津田永忠に命じて、
作らせたものらしいです!
🤡「津田永忠は岡南大橋に、
像があったよね〜」
写真が欲しいな😅
貼りたかった😅
というわけで、
池田綱政さんの時、
津田永忠に命じて、
百間川や後楽園が作られました。
岡山藩主・池田綱政がやった事まとめ
- 綱政の治世の大半で飢饉や洪水が起き、貧民救済とそれによる財政の悪化に奮闘した。
- 津田永忠に命じて、百間川や後楽園を作らせた。
🤡「ところで後楽園の写真はないの?
貼れば分かりやすいのに」
岡山市民だけど、
後楽園の有料部分に、
入ったことがなくて😅
🤡「それは岡山市民あるあるかも」
あと池田綱政さんは、
子供が70人いたことでも知られています。
🤡「すごいな!」
この記事は、
ほぼ倉知克直さんの本、
「池田綱政」の感想なので、
池田綱政さんについて詳しく知りたい人は、
上の本を読んでみてください!
綱政さんの父・光政さんの本や、
作者の倉知克直さんの本についても、
感想記事を書いてます!
🤡「特に岡山市民の方!
読んでみてください!」
それでは今日はこの辺で失礼します!
🤡「さようなら〜!」
最後まで読んでくれて、
ありがとうございます!
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