【「和田合戦」をわかりやすく説明!】きっかけは?鎌倉殿の13人の予習に!

2022年7月9日

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こんにちは〜!

カワタツです!

🤡「どーも!

デルピエロです!」

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

好評だね!

🤡「真面目にやっても、

笑いになる大泉洋」

さて今日は、

「鎌倉殿の13人」の、

下調べになりそうな記事にしたいんだ!

🤡「お!

どんな事を書くの?」

いずれ「鎌倉殿の13人」で、

展開されるであろう、

和田合戦

について説明します!

🤡「おお!

和田義盛が滅ぼされた戦いだな!」

できるだけ分かりやすくなる様に、

努力します!

🤡「鎌倉幕府成立後って、

合戦とか内乱が多くて、

どれがどれか良く分からないんだよね」

そう思う人、

読んでみてください!

僕もそんな気持ちで、

まとめてみたいと思い、

書きました!

岩田慎平さんの「北条義時」と、

「図説鎌倉幕府」を参考にしてます!

和田義盛が和田合戦を起こしたきっかけは?

🤡「和田合戦が起こったきっかけって、

何なの?」

建暦3年(1213年)2月、

まず信濃国(長野県)の、

泉親衡(ちかひら)という武士が、

鎌倉幕府2代目将軍頼家の遺児、

千寿丸を旗印として、

鎌倉幕府に対して反乱⚔💥を、

起こそうとした。

🤡「鎌倉幕府が成立した後、

まだ各地で反乱が起きてたんだよね」

そして中心人物とその家来が捕まり、

捕まった中に、

和田義盛の息子、

義重(よししげ)・義直と、

義盛の甥の胤長(たねなが)がいた。

🤡「え?

和田義盛って、

鎌倉幕府の13人の宿老の1人だよね?

幕府の重要人物の息子と甥が、

幕府に対する反乱に参加してたの?」

そういう事になる。

義重・義直は義盛が直訴して、

許されたが、

胤長は許されず、

北条義時は処罰を与えた。

🤡「どんな処罰?」

面縛(めんばく)という処罰で、

両手を後ろ手に縛り、

顔を前に差し出し晒すこと。

🤡「なんだ。

それだけか」

いや、

これは当時に人々にとっては、

かなり屈辱らしい。

🤡「そうなの?」

烏帽子の下の髪を見られるのが、

当時の武士には、

かなり屈辱だったらしい。

胤長も、

烏帽子の下の髪を、

じっくり見られるのが、

屈辱だったんじゃないかな。

🤡「何となく分かる気はする」

これは義盛にとっても、

眼前の胤長を救うことができない、

無力感があったらしい。

🤡「『胤長が辱しめられてるのに、

ワシは何もできん…😢

おのれ義時め❗️』

とか義盛は思ったのかな?」

多分そんな感じだろう。

そして、

この日から和田義盛は、

幕府への出仕をやめてしまう。

🤡「謀反らしくなってきた!」

和田義盛が反乱を起こそうとした気持ち、

何となく分かってもらえました?

泉親衡の反乱に参加した、

義盛の息子・義重・義直と、

甥の胤長。

この処罰で、

胤長が屈辱を受けた事で、

和田義盛は北条義時に対する、

反逆を考える様になった。

コレが和田合戦が起こるきっかけだと、

言われています。

和田合戦前の義盛と実朝のやりとり

🤡「この後、

和田義盛はどうするの?」

出仕をやめていた義盛にたいし、

将軍の実朝は、

「どーしたの?」

使者を送るんだけど、

🤡「ちょっとユル過ぎない?」

義盛は、

「幕府に反乱を起こすつもりは、

ないんですよ。

でも、こないだの義時の処罰、

ひどすぎませんか?」

と弁明する。

🤡「ひとまず安心」

でも使者が義盛の家に行った時、

義盛の息子の朝夷名義秀(あさいな)たちが、

武器を準備してたらしいんだよね⚔🏹

🤡「前言撤回。

殺伐としてきた。

鎌倉武士って怖い」

実朝はもう一度、

義盛に使者を送るんだけど、

義盛が言うには、

「最近の義時、

やりたい放題し過ぎじゃないですか?

殿(実朝)がそれをどう考えてるか、

直接聞いてみたいんですけど!

というかウチの若いやつらが、

めちゃめちゃ怒ってて、

もう引き止めるのは無理っすわ〜!」

という感じの事を言ったらしい。

🤡「義盛より、

義盛の息子や家来が、

怒ってたのか」

そう!

ちなみに義盛はこの時、

67歳のお爺さんだったそうです。

🤡「じゃあ、

そんなチャラ口調じゃないだろ」

ともかく、

実朝と義盛は使者でやりとりをしたけど、

義盛の家来が怒ってて、

合戦が起こるのは、

避けられない状況になった。

和田合戦始まる!

建暦3年(1213年)5月2日、

和田義盛の軍勢は、

3手に分かれて、

将軍御所と北条義時邸、

大江広元邸を襲撃した。

🤡「やっちまったなあ!」

しかし義盛の味方のはずだった、

三浦義村が、

実朝と北条政子を逃してしまう。

(三浦義村は和田義盛の甥)

🤡「え?

義村が裏切ったのはともかく、

義盛は実朝と政子を攻めようとしてたの?」

いや、

実朝と政子の身柄を確保できれば、

「義時よりも私(義盛)の方が正しい!」

という事にできると思ってたんだよ。

🤡「なるほど」

しかし、その考えは失敗して、

義盛はたくさんの御家人を、

敵に回す事になった。

翌日3日には、

義盛も討ち取られて死んだ。

和田方の軍勢は散り散りになり、

各地で自害に及ぶなどして掃討された。

片瀬川にさらされた和田方の首は、

234人分もあったと言われ、

幕府側の負傷者も、

188人もいたらしい。

🤡「400人以上は負傷者がいたのか。

かなり激しい戦い!」

そうなんだよ。

和田義盛は将軍御所、

義時邸、大江広元邸を襲撃するけど、

実朝と政子を捕らえられず、

たくさんの御家人を敵に回し、

数で負けて義盛も死んだ。

まとめ

  • 泉親衡の反乱に参加した和田義盛の甥・胤長が屈辱の処罰を受け、胤長を助けられなかった和田義盛が北条義時に恨みを持つ。
  • 将軍・実朝と義盛はやり取りするけど「義時ひど過ぎないすか?てか若い奴らを抑えきれません」となる。
  • 和田義盛は将軍御所・義時邸・大江広元邸を攻めるも、三浦義村が裏切って実朝と政子を逃し、たくさんの御家人を敵に回す。数で負けた義盛は討ち取られた。

和田合戦はこんな感じだと思います。

🤡「なるべく分かりやすくしたつもりですが、

どうですか?」

北条義時について、

もっと詳しく知りたい人は、

岩田慎平さんの「北条義時」と、

図説鎌倉幕府を読んでみてください!

北条義時の妻についても、

記事を書いてます!

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について、

いろいろ記事を書いてます!

🤡「予習・下調べになるかも!

読んでみてください!」

🤡「丸善ジュンク堂の、

店舗検索でこの本を買いたい人は、

上の記事を読んでみてください!」

北条義時や「鎌倉殿の13人」の、

理解が深まりそうな記事、

他にも書いてます!

それでは今日はこの辺で失礼します!

🤡「さようなら〜!」

最後まで読んでくれて、

ありがとうございます!